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僕の音楽遍歴(前編)

僕が音楽らしい音楽に初めて出会ったのは多分、フィンガーファイブではないかと思う。

フィンガー5 恋のダイヤル6700

うっすらとした記憶ではあるが、近所にあった小さなレコード屋さんに自分で買いに行ったのだ。アグネスチャンひなげしの花と随分迷ってたようなないような…。当時はまだ500円札の時代で、なけなしのお小遣いを握りしめて、何ヶ月かに一回はプラモデルを買うかレコードのシングルを買うかだった。

 

レコードを買い始めたのは確か、実家に初めてステレオセットがやってきたからだと思う。ビクターのセットで、レコードプレーヤーとAM/FMチューナー、アンプとスピーカーのセットだった。カセットオーディオはまだ当時はオプションみたいな時代でメイン機器のひとつになるのはもうちょっと後の時代。

 

親父はポール・モーリア井上陽水、あと色々演歌なんかを聞いてたかなぁ。結構、音楽にはうるさいというか、クラッシックを聞くような人ではなかったけども、歌謡曲みたいなのでも音痴はとことん嫌いな人だったし、森昌子のことは褒めてたけど、山口百恵は大っ嫌いな人だった。

 

中学に入ると、世間はニューミュージックとかフォークソングが前世になってきていた。僕も例に漏れず、アリスさだまさし松山千春などにハマるようになっていった。中学二年の頃に、クリスマスプレゼントで親と一緒に繁華街へ出かけ、モーリスのフォークギターを買ってもらってからというもの、自分で弾き語りにのめり込むようになってしまい更にフォークの世界に突き進んでいったのだった。

 

ところでそれと並行して、貯めたお年玉なんぞを使ってラジカセを買い、エアチェックもするようになっていった。多分、小六の頃からだったと思う。最初はモノラルラジカセだったけど、中二の頃にはちっちゃいけど音質のいいステレオラジカセを買った。もしこれを読んでエアチェックって何?と思う人もいたら、と思うので少し説明。

 

エアチェックというのは、要するにラジオ放送を録音することである。なんだかんだ言ってもレコードは高い。貸レコード屋もなかったわけではないけど、それでもお金払う必要あったし、それに当時のレコードなんてそんなに音質は良くもなかったから、FM放送から録音したって大差なかったのである。しかしこれには多少の技術が必要であった。

 

「それでは○○のアルバムから××をどうぞ!」

 

というDJの紹介から間髪いれずに録音ボタンを押さねばならない。僕が買った2台目のラジカセでは一旦停止のポーズボタンが付いてたから楽になったが、1台目は録音ボタンと同時に再生ボタンを押す必要があり、録音ボタンが押しきれずに意味なく再生だけになってしまって泣いたことも何度かあった。ともあれ、間髪いれずにボタンを押さないと、曲の頭が切れてしまうわけだ。他にも、テープの頭出しを事前に行って準備したり、テープの残量を事前に把握しておいたりと、色々それなりに技術が必要だった。

 

ところが、そんな僕たちの苦労を察してかどうか知らないが、夢のようなFMの音楽番組があった。なんと、アルバム一曲丸ごとすべて放送してくれるのである。しかも、A面ならA面連続放送し、CMやナレーションを挟んでB面を連続放送していた。だから、簡単にアルバム一枚をカセットに収めることが出来たのである。但し、後々、流石にレコード会社からクレームがついて番組は終了してしまったけどもね。

 

ともあれ、僕はその夢のようなFM番組で多くの洋楽と接することになった。例えばスティーリーダンドゥビーブラザースなんかがそうだろう。ほかにもいっぱい聞いてたくさん録音し、僕の机の引き出しはあっという間にカセットテープの山で溢れた。そんな中で、今でも僕のギターヒーローになってるジェフ・ベックってのがいる。FMで録音しつつ聴きながら一発で惚れてしまい、"THERE AND BACK"ってアルバムも買った。ほぼビートルズなんかと同期の人で還暦過ぎてるのに現在もまだ一線で活躍してたりする。数年前、たまたま見つけて好きだった巨乳w美人ベーシストのタル・ウィッケンフィルドと共演してる動画を見て嬉しい反面ちょっと悔しかったなぁ(笑)

 

高1の頃、隣のクラスにいたK君と何故か親友になって、ある日彼がバンドをやりたいと言い出し、僕は単にノリで軽く「やろうぜー」なんて言ってたら、次の日にベースをあてがわれた。で、その時点で一体どんな音楽するのかも知らなかったのだけども、K君はヘビメタをやりたいと言う。

 

当時はヘビメタってジャンルはまだ始まったばかりで、レッド・ツェッペリンレインボーなど後々の基準から言えばヘビメタというよりハードロック的なのしかなかったのだけども、K君がやりたかったのはマイケル・シェンカー・グループだった。僕はそれまでさだまさし松山千春とかの軟弱フォーク路線だったから、畑は全然違うのだけども、若かったからだろうか意外にも一旦やり始めてみるとすぐにヘビメタの世界に染まっていったかな。とは言え可愛いもんで、多少髪の毛伸ばしたり、ゼブラ模様のシャツ着たりする程度だったけどね。

 

ただ、バンドやろうったってメンバー集めたはいいが、どこでするんだ?って話になる。そこで一番簡単だった軽音楽同好会に所属することになった。高1の頃はそれでヘビメタやってたけども、だんだん飽きてきて高2の頃からフュージョンに目覚めるようになった。代表格は高中正義。やっぱり楽器やってるともっと上手になりたいって欲が出てきて、ヘビメタも突き詰めてけば技術もそれなりにいるのではあるけども、フュージョンは技術が前面に出るジャンルなので大抵みんな当時はやりたがった。要するに「上手い!」って言われたいんだよね。

 

僕はベースやってて一番最初に上手くなりたいって目指したのはこれ後藤次利さんは今でもAKBとかでも引いたりしてるけども、細野晴臣と並ぶ、日本のベース界の巨匠の一人だ。今ではベースを指で叩いたり弾いたりする奏法のことをスラップって言うけども昔はチョッパーとか言ってた。それは後藤次利のこれが原因である。但し、日本で初めてチョッパーをしたのは後藤さんではないらしい。これは余談。

 

適当に書いてきたら長くなってしまったので、後編はまたいずれ書こうかな。ちょっとでも懐かしく思ってくれた人がいたら幸い。