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まとめサイトに思う事

「まとめサイトに洗脳された大人」と「まとめサイト思想に染まる若者たち」 - BAYAREAD ─読書記録と忘備録─

 

ほんとに久しぶりのブログ更新だな。

ともあれ、今回のテーマは「まとめサイト」。

 

まとめサイトは今はNAVERまとめが台頭しているが、2chまとめサイト系が今もなお主流ではある。多分きっかけはブログが流行りだした時期に社会現象までにものぼりつめた『電車男』だろう。2ch掲示板のスレッドそのものは余計なコメントも多く、また1000コメントで別スレになって元スレッドは消えてしまったりするので、リアルタイム参加者以外には読みにくいものであった。なので、有志が面白そうなスレッドを勝手に別のサイトにまとめるということをしていた。そしてその一つであった『電車男』がヒットしたのである。

 

そこにアフェリエイト広告で稼ぐという行為がセットされ、大量の2chまとめサイトが発生していくことになった。あっという間に群雄割拠、売り上げ確保のための読者の奪い合いとなり、とにかくPVを稼ぐために、不要なコメントの削除はもちろん、フォントのカラーや強調でより効果的に読みやすくすることはもちろん、写真や動画を加えたり、場合によっては悪質な事にスレッドコメントを意図的に部分的なトリミングを行ったり、改竄・捏造する事まで行われるようになった。

 

そんなわけで、実際の所、2chまとめサイトはまとめサイト管理人によって「作られた」ものであり、到底確かな情報源として使えるような代物ではないのだ。だでさえネットに書かれている情報の信憑性は怪しいものが多い上に、そもそも出所があの怪しさ満点の2chなわけだ。

 

ところが、上の記事でもある通り、どうやらそんな怪しいまとめサイトに洗脳されてしまっている人もいるという驚愕の事態。いやそんなに驚かなくてもいいけども(笑)、スマホが主流になってきた現在、ネット閲覧する人が増えて、まとめサイトにどんどん流入していると推測されるので、リテラシーの低い人にそうした怪しい情報が流れ込んでいるという事なのだろうと思われる。

 

そのような怪しい2chまとめサイトのうちで、たちの悪いのがネトウヨ系コンテンツだろう。嫌韓・嫌中・反サヨ・従軍慰安婦否定論・南京事件否定論、その他諸々、もともとの2chスレッドでさえ、ネトウヨの人たちが大半なのに、まとめでは少数の反ネトウヨなコメントがまとめサイトでは削除されるのでより一層、意見の偏りは際立つ。


で、そういうものだと知らない情弱な人たちは、それが世論だと誤解する。それが常識であり正論であると。多分、かなり多くの割合でまとめサイトに影響を受けていわゆるネトウヨ的な考えに染まっていった人がいると思うし、現実の世論ですらも影響を無視できなくなっているのではないかとすら思う。


だってさ、これは個人的な話だが電車などで、見ちゃいけないと思いつつ見ちゃった他人のスマホ画面にまとめサイトが表示されていることは、パズドラやLINEと似たような頻度であるからさ。


もっともこれらはまとめサイトのデメリットの強調に過ぎず、もちろんメリットも多い。なんたってサクッと面白い情報に接する事のできる利便性の高さ。意見の偏りを無視すれば、他人の考え方や意見がサクッとわかる。世の中の動きや、知らない物事、興味深い話、或いは自分が知りたい情報を簡単に得られる。ググって調べる必要すらなく、物凄く簡単なのである。なんかないかなーとタイトルリスト眺めてれば良いのだ。


ともあれ、結局のところ正しい情報やら考え方というのは自分で判断するしかない事を弁えてネットとは付き合っていかないといけないといけないという事を肝に命じておきたい。

反省するということが苦手な人たち

「自戒を込めて」という卑怯な自己保身 - ihayato.書店 | ihayato.書店

 

このエントリ自体はほとんどどうでもいいのだけど、「反省する」っていうのはなかなか大変なことである、ということをちょっと書きたいと思った。

 

「自戒を込めて」っていうのも反省の一つだ。我が身を省みると、これは自分にも当てはまるから、ってんで自分にも戒めておく。しかしこれなかなか出来る話ではない。イケダ師匠なんかは、反省しようったってそのブーメランが自分に突き刺さってても気づかないくらいだから、いかに大変かわかりそうなものだろう…でもその大変さもわかってないな師匠。

 

反省がやだ!って人たちの代表格はウヨクだ。ちなみに右翼とは書かないでウヨクと書くのにはそれなりの理由がある。いわゆる国体護持的な天皇崇拝系の人は街宣活動する人たちを含め正統派右翼だとは思うし、右翼のあり方としてはそれがまともだと思うけど、ウヨクは違う。似て非なる存在でウヨクは徹底的な排外主義であり、とにかくやたらと攻撃的で、その際たる特徴は反省を極端なまでに嫌うどころか、完璧に開き直りきる。日本人は悪くないどころか世界に誇れる優秀で正義の民族であり、余所者とは違うのだ!と。

 

偏狭な精神の持ち主であるところの彼らにとっては、それが果たしてとにかく居心地のいい場所であることはわかる。彼らが排外的にふるまう暴力は、自らの依存している思想が絶対的に正義なので、罪悪感など微塵もなく、その攻撃によって相手の上に立つことが出来るから気分爽快であろう。彼らはその存在自体が正義であり異論を挟む余地など欠片もないのである。

 

そんな彼らにとって、日本が中国や韓国に詫びるとか反省を示すなどという行為は、もはや彼らに生きる為の餌を与えるようなものだ。それがたとえ、外交や経済の問題に発展しようがどうであろうが、そんなことはどうでもいい話なのである。ともあれ、反省などあり得ない話なのだから。

 

…とちょっとオーバーヒート気味にウヨクの事を語りすぎてしまった。昔取った杵柄というか、ほんとに長いこと言い争ってたからなぁw

 

ほんとに反省するというのは得てして難しいことが多いのだけど、実際にはみんな当たり前のようにやってることでもある。たとえば、朝会社に遅刻してこっぴどく叱られたりしたら、今後そんなことは二度とないように目覚まし時計を買うとか工夫をすることは普通にやってるわけだ。我々はそんな風に日々、何かそういった失敗などあるたびに反省という行動をとることによって改善を行うことが出来る。というか、反省のない社会はあり得ない。ちょっと考えても我々の生活や社会は反省だらけで成り立っているといっても過言ではない。むしろ反省することはどうやったって避けられないのである。

 

ただ、反省しない方が居心地がいいというか、精神的には落ち着くというか、その辺はわかる。自分は悪いって罪の意識を持つことは、とにかく精神的にはよろしくない。罪を憎んで人を憎まずなんていうけれど、なかなかそんな風に割り切れたものではない。人は責めるにしろ責められるにしろ、その人自身の存在というか、その人そのものが悪い、とどうしても思ってしまう。だから、自分を責めず、あるいは自分を責めることを認めず、の姿勢への誘惑に勝てない場合があるのだろう。それを認めたら自分のアイデンティティが揺らぐ、自死に等しいとさえ…。

 

だけど、エヴァのミサトは死ぬ直前、シンジにこう言った。

  

「今の自分が絶対じゃないわ。後で間違いに気づき、後悔する。あたしはその繰り返しだった。ぬか喜びも、自己嫌悪を重ねるだけ。でも、その度に前に進めた気がする。」

 

 いきなりエヴァンゲリオンとか無関係も甚だしいのだけど(笑)、なかなかいいこと言うなあと思った。自己嫌悪しても、そのたびに少しずつでも前に進めるのなら、自分を責めることを厭う、その気持ちを少し抑えることくらいしてもいいのではないか。自分を信じるとは、その少しでも前に進める可能性はあると信じることなのであって、自身の主義主張に拘って一歩も進まないでアイデンティティなる実体のない殻の中に閉じこもることを意味するのではない、と思うのだけどね。

 

僕の音楽遍歴(前編)

僕が音楽らしい音楽に初めて出会ったのは多分、フィンガーファイブではないかと思う。

フィンガー5 恋のダイヤル6700

うっすらとした記憶ではあるが、近所にあった小さなレコード屋さんに自分で買いに行ったのだ。アグネスチャンひなげしの花と随分迷ってたようなないような…。当時はまだ500円札の時代で、なけなしのお小遣いを握りしめて、何ヶ月かに一回はプラモデルを買うかレコードのシングルを買うかだった。

 

レコードを買い始めたのは確か、実家に初めてステレオセットがやってきたからだと思う。ビクターのセットで、レコードプレーヤーとAM/FMチューナー、アンプとスピーカーのセットだった。カセットオーディオはまだ当時はオプションみたいな時代でメイン機器のひとつになるのはもうちょっと後の時代。

 

親父はポール・モーリア井上陽水、あと色々演歌なんかを聞いてたかなぁ。結構、音楽にはうるさいというか、クラッシックを聞くような人ではなかったけども、歌謡曲みたいなのでも音痴はとことん嫌いな人だったし、森昌子のことは褒めてたけど、山口百恵は大っ嫌いな人だった。

 

中学に入ると、世間はニューミュージックとかフォークソングが前世になってきていた。僕も例に漏れず、アリスさだまさし松山千春などにハマるようになっていった。中学二年の頃に、クリスマスプレゼントで親と一緒に繁華街へ出かけ、モーリスのフォークギターを買ってもらってからというもの、自分で弾き語りにのめり込むようになってしまい更にフォークの世界に突き進んでいったのだった。

 

ところでそれと並行して、貯めたお年玉なんぞを使ってラジカセを買い、エアチェックもするようになっていった。多分、小六の頃からだったと思う。最初はモノラルラジカセだったけど、中二の頃にはちっちゃいけど音質のいいステレオラジカセを買った。もしこれを読んでエアチェックって何?と思う人もいたら、と思うので少し説明。

 

エアチェックというのは、要するにラジオ放送を録音することである。なんだかんだ言ってもレコードは高い。貸レコード屋もなかったわけではないけど、それでもお金払う必要あったし、それに当時のレコードなんてそんなに音質は良くもなかったから、FM放送から録音したって大差なかったのである。しかしこれには多少の技術が必要であった。

 

「それでは○○のアルバムから××をどうぞ!」

 

というDJの紹介から間髪いれずに録音ボタンを押さねばならない。僕が買った2台目のラジカセでは一旦停止のポーズボタンが付いてたから楽になったが、1台目は録音ボタンと同時に再生ボタンを押す必要があり、録音ボタンが押しきれずに意味なく再生だけになってしまって泣いたことも何度かあった。ともあれ、間髪いれずにボタンを押さないと、曲の頭が切れてしまうわけだ。他にも、テープの頭出しを事前に行って準備したり、テープの残量を事前に把握しておいたりと、色々それなりに技術が必要だった。

 

ところが、そんな僕たちの苦労を察してかどうか知らないが、夢のようなFMの音楽番組があった。なんと、アルバム一曲丸ごとすべて放送してくれるのである。しかも、A面ならA面連続放送し、CMやナレーションを挟んでB面を連続放送していた。だから、簡単にアルバム一枚をカセットに収めることが出来たのである。但し、後々、流石にレコード会社からクレームがついて番組は終了してしまったけどもね。

 

ともあれ、僕はその夢のようなFM番組で多くの洋楽と接することになった。例えばスティーリーダンドゥビーブラザースなんかがそうだろう。ほかにもいっぱい聞いてたくさん録音し、僕の机の引き出しはあっという間にカセットテープの山で溢れた。そんな中で、今でも僕のギターヒーローになってるジェフ・ベックってのがいる。FMで録音しつつ聴きながら一発で惚れてしまい、"THERE AND BACK"ってアルバムも買った。ほぼビートルズなんかと同期の人で還暦過ぎてるのに現在もまだ一線で活躍してたりする。数年前、たまたま見つけて好きだった巨乳w美人ベーシストのタル・ウィッケンフィルドと共演してる動画を見て嬉しい反面ちょっと悔しかったなぁ(笑)

 

高1の頃、隣のクラスにいたK君と何故か親友になって、ある日彼がバンドをやりたいと言い出し、僕は単にノリで軽く「やろうぜー」なんて言ってたら、次の日にベースをあてがわれた。で、その時点で一体どんな音楽するのかも知らなかったのだけども、K君はヘビメタをやりたいと言う。

 

当時はヘビメタってジャンルはまだ始まったばかりで、レッド・ツェッペリンレインボーなど後々の基準から言えばヘビメタというよりハードロック的なのしかなかったのだけども、K君がやりたかったのはマイケル・シェンカー・グループだった。僕はそれまでさだまさし松山千春とかの軟弱フォーク路線だったから、畑は全然違うのだけども、若かったからだろうか意外にも一旦やり始めてみるとすぐにヘビメタの世界に染まっていったかな。とは言え可愛いもんで、多少髪の毛伸ばしたり、ゼブラ模様のシャツ着たりする程度だったけどね。

 

ただ、バンドやろうったってメンバー集めたはいいが、どこでするんだ?って話になる。そこで一番簡単だった軽音楽同好会に所属することになった。高1の頃はそれでヘビメタやってたけども、だんだん飽きてきて高2の頃からフュージョンに目覚めるようになった。代表格は高中正義。やっぱり楽器やってるともっと上手になりたいって欲が出てきて、ヘビメタも突き詰めてけば技術もそれなりにいるのではあるけども、フュージョンは技術が前面に出るジャンルなので大抵みんな当時はやりたがった。要するに「上手い!」って言われたいんだよね。

 

僕はベースやってて一番最初に上手くなりたいって目指したのはこれ後藤次利さんは今でもAKBとかでも引いたりしてるけども、細野晴臣と並ぶ、日本のベース界の巨匠の一人だ。今ではベースを指で叩いたり弾いたりする奏法のことをスラップって言うけども昔はチョッパーとか言ってた。それは後藤次利のこれが原因である。但し、日本で初めてチョッパーをしたのは後藤さんではないらしい。これは余談。

 

適当に書いてきたら長くなってしまったので、後編はまたいずれ書こうかな。ちょっとでも懐かしく思ってくれた人がいたら幸い。

 

南京事件をなかったという人達

【維新】 中山成彬衆院議員「南京事件はなかった」 1次資料に当たり、生き残りの人に会い、結論を出す

南京事件の議論はそれはもう古い。本多勝一vs山本七平の時代から言えばもう40年以上になる。僕が知ってるのは、Niftyのパソコン通信時代からで確か1990年代くらいからだろうか。僕が議論に加担してたのは10年くらい前、2ちゃんねる上でだった。確か、小林よしのりが『戦争論』で東中野修道や田中正明の論を使用して否定論を振りまいた時期くらいだったと思う。
 
それらの否定的議論が、資料の恣意的引用やトリミング、果ては資料の改竄に至るまで様々なトリックを使ったものであることはその筋では有名な南京事件 小さな資料集で仔細に分析論破されているところなのだけども、こうして徹底的に詳しく批判されても否定派がたじろいだ事は多分一度もない。彼らと議論してみると、その攻撃力の源泉は一体どこにあるのかと思うほどタフである。
 
南京事件はその論争の歴史の成果として、かなり豊富な証拠資料が整備されている。左派からは主に諸外国側からの資料と中国の資料でまとめられた『南京事件資料集』、右派からは日本軍側からの資料でまとめられた『南京戦史・南京戦史資料集』というものが代表的である。他にも在留外国人の記録や裁判資料、日本軍人による当時の日記など一次資料の宝庫といってもいいくらいだ。それらを付き合わせていけば、規模の点では疑問はあれど、それ相当に酷いことを日本軍がやったことはほぼ確実であることは分かるはずである。
 
にも関わらず、国会議員のこんな人でも「なかった」なんてことを言う。いや、国会議員の人が否定論に与することは別に珍しくもないことで、中には俗に言う「百人斬り裁判」に原告を弁護し、ボロ負け(百人斬り競争 - Wikipedia)した稲田朋美なんていう議員もいたりする。国会議員の全部がそうではないとは思うけども、社民党共産党を除けば、与党野党問わず否定派はかなりいる。
 
しかも、ほぼ断定的に「なかった論」を声高に叫ぶため、事情を知らない人はおそらく大半が南京事件はほんとはなかった、と思うのではないだろうか。以前、「たかじんのそこまで言って委員会」というテレビ番組を見てたら、否定派の東中野修道を解説者として登場させていて、ひな壇の論者達は一人を除いて全員その否定論に疑問を持ってなかった。その一人は田島陽子であるが、それはともかく若干程度の事情を知ってるであろう論者達でさえもあんな感じだから、否定派にとっては素人を騙す程度容易いことなのかもしれない。
 

お掃除の基本をプロが伝授してみせようかのう…

実は拙者、掃除のプロフェッショナルである。正確を期すとプロフェッショナルがイコール金銭授受にあるならば、である。他にも色んな仕事してるうちの一部分がおそうじである。
 
しかし、それを言うなら掃除のプロなんておそらく何十万人以上も日本にいるはずだ。ビルのお掃除のおばちゃんがそうであるし、ディズニーの清掃スタッフなんか凄いし、コンビニ店員だってあれだけやれば立派なプロだろう。
 
だが意外に、掃除の基本を知る人はそのうち何割か、に過ぎないと思われる。「え?そんなんちゃっちゃと綺麗にしたらええだけやん」と思われる方も多いであろう。まー確かにそうだがね。それに、無意識のうちに基本身についている人は多いと思う。その上、実のところ、僕の言う基本は多分オリジナルのものであって、誰も具体的には知らんwwwwww。ただ、僕自身は、この基本を意識するようになって、掃除がかなり上手くなったように思えたし、実際に仕事の中で多少の成果は上げることは出来たと思う。
 
さて、その基本とは以下の三つである。
 

  • 汚れを取り去ること
  • 汚れのない状態にすること
  • 綺麗に見えるようにすること

 
ここで「はぁ?それって掃除を言い換えただけじゃねぇのか?しかも三つとも大して違わんぞ?」みたくずっこけた人、ちょっと待って欲しい。確かにだ、辞書なんかで「掃除」の意味を引いてもそのように書いてあるが、実は以外にこれが深いのだ。以下でその三点、説明しよう。
 

汚れを取り去ること

汚れを取り去る作業そのものこそ、掃除である。当たり前である。それが掃除でなくてなんであろうか。ゴミやホコリなどの汚れをその場から取り去る、そして次項で説明する汚れのない状態にしていく、掃除とはそういうことなのだがしかしここでひとつ立ち止まって考えて欲しい。
 
君が今、仮に箒を持ってちりとりにゴミを収集しようとしているとしようではないか。おい君、ちょっと待て、それは果たして本当にゴミか?あるいは、窓ガラスの汚れを拭き取ろうとしてる君、それは本当に汚れか?
 
こう聞かれたら誰もがそれゴミであり汚れである、と答えるだろう。だけど、いったい誰がいつそれをゴミであり汚れだと決めたのだろうか?…何を言ってるのかよくわからないと思うので簡単な例を上げよう。
 
例えば、部屋のフローリング床の上に砂粒が少し散らばっていたとするならば、その砂粒はゴミであろう。しかし砂場で砂粒はゴミではない。つまり、あるものがゴミであり汚れであると決めるのは人間様の勝手な都合によるものであって、そのもの自身ではないのだ。だから極端な話だけどゴミ屋敷なんてものがあったりする。その居住者にとってはゴミではなく大事な所有物であったりするわけだ。
 
僕が言いたいのはだ、あの下らない松居棒なんていらないってことだ。松居一代と同じくらい隙間のホコリが気になるならどうぞやればいいが、「この素晴らしい洗剤の威力はほれ!このとおり!ピッカピカ!」にする実は非常に高価なのにいかにも安くお得に思わされてるだけの洗剤など君に必要か?と。そんな隙間、掃除の必要がそもそもあるのか?ってことなのだし、ピカピカにしたところでまたすぐ汚れるだけで、不要な掃除は時間とコストの無駄なだけなのだ。
 
大事なことは、完璧に汚れを取り去ることなのではなくて、汚れを見極めることの方にある。取るべき汚れをしっかりと見極める、取る必要のない汚れは取らなくていいという割り切りも掃除においては非常に大切なことなのである。例えばある部屋をしっかり全体にわたって掃除すべきなのに、取りにくい汚れに拘ってしまい、時間がなくなって部屋全体に手が回らなくなったら本末転倒というものである。

汚れのない状態にすること

一見、前項の「汚れを取り去ること」と全く同じに見えるかもしれない。もちろん、密接に関連しているのであるけども、ここでは汚れの見極めは関係なくて、いかにきちんとした作業を行うか、という観点である。
 
さて、掃除の基本の第一番目はきちんと取るべきと見極めた汚れを取り去ることであると前項で説明した。そしてその汚れのない状態にすることが二番目ということになるのであるが、そのためには我々は様々な手段を使う。
 

  • 掃除機でゴミやホコリを吸い取る
  • 雑巾で床を拭く
  • 洗剤をスプレーで吹きかけて台所の油汚れを浮かせてタオルなどで取り去る

 
ほかにも色々な手段や道具があるわけだが、大事なことはそれら手段で目的とする汚れのない状態に近づけてゆくことである。ところが往々にしてその目的を忘れる人たちがいる。例えば、僕がとある駅で見かけたこんな光景。
 
駅の清掃員が一生懸命モップで床を隅々まで拭いている。ほんとに一生懸命さぼらずやってたんだけど、モップを見て愕然とした。モップの糸が真っ黒けなのだ。時々、モップ絞り器に突っ込んでジャブジャブ洗っていたが、その水も真っ黒けで交換しようっていう気配すらなく、長い通路をそのまま全部拭いていった。拭き終わった床面をよく見ると案の定、汚れの筋がつきまくってたし、何より雑菌だらけのモップで臭くてたまらなかった。あれでは掃除してるとは言い難くてむしろ汚してるとさえ言えよう。
 
というわけでこの基本は簡単・単純なことである、どんな方法を使うにしろ、ちゃんとやれ!ってだけだ(笑)
 

綺麗に見えるようにすること

汚れをしっかりとって汚れのない状態にすれば綺麗に見える、とは限らない。これはもう当たり前の話で、最後にちゃんと整理整頓するまでしっかりやらないといけなかったりするわけだ。むしろ、前項までの本質的な掃除よりも実はこっちのほうが要だったりするので、要領よくやりたいのであれば整理整頓などに重点を置くほうがいい。
 
他にもある。例えば匂い。匂いには個人差などもあるので一概には言えないが、一般的にはいい香りがしているとその場が綺麗であるかのような印象を与える。あるいは、暗いよりは明るい方が良かったり、もろもろの物品の配置を適切にするだけで綺麗に見せるやり方というのもある。あるいは、床にワックスを塗布してピカピカにすると印象がガラッと変わる、というようなこともある。
  
 
というように、僕の考える掃除の基本三つを上で示したわけであるけども参考になったであろうか。とにかく、あんな大して意味があるわけでもない松居棒などいらん!と言いたかっただけなのである(笑)

オセロの中島知子さん

【完全版】オセロ中島知子、2年ぶりにテレビ出演!すべて激白! - YouTube

芸能ネタに挑戦w

多くの人が認めるように、僕も昔から美人な人だなーと思ってた。漫才の方は大して面白くもなかったけど、オセロのビジュアルは飛び抜けていて一度見たら絶対に忘れないほどだった。そのビジュアルの良さは関西から東京、全国区へと活躍の場を移しても十分武器になり、番組司会を任されるほどにまで成長した。まーそんな誰でも知ってる情報はともかく。
 
ここで中島さんが言っていることが事実なのだとすれば、マスコミが洗脳騒動を勝手に作り上げていたことになる。確かにマスコミの言ってた洗脳ストーリーはそんな事例がないわけではない。最も恐ろしい事例では、北九州監禁殺人事件 - Wikipediaなんてな世にもおぞましいマスコミでさえ公に語ることを恐れた事件なんかがある。
 
でもこのインタビュー動画では全然そんな風には見えなかった。この動画のコメントでは「マインドコントロールされてる人がマインドコントロールされてるとは言わない(からマインドコントロールされている)」*1などとかあるけども、実際されてないからされてないと言っているようにしか見えなかった。
 
ていうか、この「休みたかったから家賃滞納した」という意味不明な理由の方が洗脳ストーリーよりはるかに説得力があるように思った。もちろん、納得のいく理由ではないけれど、理屈ではなくてとにかく中島さんは自分でそう決めたんだというところに説得力を感じたのだ。それは犯罪行為の多くが納得のいく理由ではないことに似ている。…ん?僕の言ってることに納得も出来んし説得力もないって?
 
うん、いくら考えても「僕ちんはそう思うのれす」以上のことは言えないのだけど、僕はなんかマスコミの方にある種の願望があるのではないかと想像する。中島さんは占い師に洗脳されている、もうそれは決まってるんだ、動かせない事実なんだ、みたいな。そういう出来上がったストーリーの上で、かわいそうな被害者を生きてもらわないと困るんだよぉぉぉぉぉ!みたいな。
 
いやね、マスコミって全然反省なんかしないからね。俺たちがそうと決めたらそうなんだって、誤りとか認めようとしない。え?、かつての松本サリン事件の誤報を検証報道したり、和歌山カレー毒物殺人事件以来メディアスクラムを自主的にコントロールするようになってるとか、いろいろと反省してきてるって?
 
してないしてない、そんなのタダのポーズだよ。マスコミはどんなに体裁のいいこと言って正義感振り回そうと、自分たちを苦しめる気は毛ほどすらない。テレビは視聴率絶対だし、スポンサーが神様だし、新聞は購読者数だし、広告主に足を向けて寝ないし。彼らは報道される側の立場になんて一度だって立てやしないのだ。経済原理主義の中で生きている以上、ある意味それは仕方のないことで、とにかく多くの人に読んでもらわないと見てもらわないと困るのだ。
 
なんだか、マスコミ批判総論ぽくなっちゃったので話を戻す。確かに「仕事休みたかったから家賃滞納した」は意味不明だ。その意味不明さは度を越えてる。常識はずれだ。だけど、僕なんかはたまに意味不明に仕事をサボったりすることもある。疲れてるわけでもなく、ストレスからでもなく、あるいは仕事の余裕があるわけでもないのに、「まーなんとかなるでしょ」と根拠のないことを自分に言い聞かせて、サボる。そして締め切り間際になって慌てふためくw
 
そんな人は馬鹿。なるほど馬鹿だ、アホだ、言い訳不能だ。だけど、いないこともないと思うんだよね、それも結構な数で。中島さんは年収数千万の人だった。だから一般人から見れば高い家賃でも、それしきのこと、としか思ってなかった。この動画で自ら言ってるように、後でいくらでも返せる端金だったのだ。彼女の中で、家賃滞納なんて大した意味はなかったのだ。そんなことより、とにかく仕事休ませてくれ、休みたいから家賃滞納したった、わからんのかそこまで決意してるって!
 
わからんけどなw

*1:洗脳とマインドコントロールは別の用語なのだけど

ホメオパシーなんか消えてなくなれ!

ホメオパシーが排除されるべき理由: ニュースの社会科学的な裏側
 
ホメオパシーについて割と多分久々ではないだろうか、はてなのホッテントリにあがってくるのは。
 
僕は以前にブログに書いたように、いわゆる疑似科学的なものに対してはやや知識のある方である。ホメオパシーについて知ったのは多分そんなに経ってないけれど、ネット上で厳しく批判されているのをよく見かけて興味を持つようになった。
 
昔僕の知ってる人で、ガンで若くして亡くなった人がいる。その人は看護師さんだったんだけども、ガンが全身に転移して助かる見込みはなかった。でも、20代の若さだったし婚約相手もいたりしてなんとか助からないかと、それはもう必死だった。ある時、その人は四国に住む霊媒師だかなんだかのところに行った。手かざしでガンを治す、というのを聞きつけたかららしかった。まさに藁をも掴む思いである。驚くなかれ、そこから入院中の病院に帰ってきた時の状態に周囲は驚いた、あれだけしんどそうな表情が全く消えていて、一見元気そのものだったからだ。だが、ガンは全く消えるどころではなくて、それから二、三日後にはまた元の苦しい闘病生活が始まった。そしてそれから数ヶ月あまりで天に召された。
 
ホメオパシーは実際には医学的効果はないと知った上で、プラセボ的な効果はあるんだし、毒になるわけでもないのだから別にいいじゃないか、という人たちがいるのを知っている。多分、上で書いた僕の知人の話も、プラセボ的な何かの効果で一時的とはいえ元気さを取り戻せたのだろう*1。でもそれを理由に許されるんだったら、一時的にいい思いの出来る結婚詐欺だって許されるんじゃないかと思う。
 
それなら、信仰上の神様にお祈りするのだって似たようなものでないか!、とかもし言われたとするとなんだかモヤモヤするものはある。神様の存在なんて大問題は抜きにするとして、自己の心理状態の在り方がそれによって好転する、という効果は確かに否定できないものではある。詐欺に騙されたまんまの状態であるのと純粋に信仰するのとはなるほど区別のつかないところなのかもしれない。それこそエホバの証人なんて、輸血拒否しちゃうくらいだから、ある意味悪質さではホメオパシーはそれよりはマシかもしれないよ、うん。
 
でもねでもね、ホメオパシーには生き延びて欲しくないし排除されて欲しいと強く思う。なんていうのかなぁ、純粋に人を助けようっていう正規の医療に対する冒涜っていうか、ものすごく馬鹿にしてるっていうか、あんな砂糖玉が人様の命を助けるとか、腹が立つんだよね。憤りを覚えるって感じ。
 
ていうか、人様の命をなんだと思ってるんだろうね、ホメオパシーを売る人たちってさ。

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