暇なら読んで貰えると嬉しいかもしれない

思いつくままに書きたいことを書き連ねる為のブログ。

「自分らしくありたい」教という自己矛盾

 

「自分らしい」ということ - 24時間残念営業

 

24時間営業の人は割と好きで、この人ほんとよく考えてるなぁと常々感心してたりする。ずっと以前に、この店長が店員を教育すべく、色々と語っていたことの中にアリストテレスが「形而上学」の中で書いていたこととそっくりな内容があったのにはいたく感心してしまった。ほんとにしっかりとよく考えてるんだよなぁ、俺には足元にも及ばない。コンビニの店長という職業にこんなに深い洞察が必要なら、多分僕には無理だ。…いやあるいはコンビニの店長という鍛錬がそうさせるのか。

 

自分らしく、という表現は自己矛盾である。自分でない人は論理的に存在しない。我思う故に我有り、である。他人の考えに従って生きようと、自分の考えを殺して生きようと、どう足掻いてもそれは自己の意思によるものであり、たとえそれが強制的に行動させられてたとしてさえも、その強制に従うのは自己であり、人は自分らしく生きること以外あり得ない。屁理屈だが、しかし、現にそうなのだから仕方ない。我々は自分という殻からは死ぬまで出ることは出来ない中の人なのだ。中の人の中の人がどうなっているのかはともかく。

 

いや、しかし屁理屈でもないと思う。例えば店長は上の文章を最低でも1時間以内に仕上げているに違いないだろうが、僕にはそれが出来ない。たいていほとんどの場合書いては消し書いては消しの繰り返しで、下書きのまま放ってしまって、結局、アップしないものも多くある。下書きで残っているならまだいい方で、脱線し過ぎてグダグダになって何を書いているのか趣旨すらわからなくなり、下書き保存せずブラウザタブを閉じてしまうことも頻繁にある。これだって既にもうグダグダで、まとめきれるのか不安だ。実はもう、物書きしだした小学生のころからそうで、書くこと自体は好きだったが、いっつも中途半端、物書きとは違うが初めて作ったフルスクラッチプラモデルも、ものすごくいい出来だったのに途中でやめてしまったほどだ。

 

結局そういう中途半端さは僕の人生延々に続いており、これが遺伝的に備わっている性質であり、どうにもならないと自覚せざるを得ない。多分脳の神経構造がそうなっているのだろう。開き直って、これが自分らしさなのだと思うことはほんとによくあることで、自分らしく生きるというのは僕にとって成長するのは諦めろというに等しかったりする。ていうか何が「自分らしく生きる」だよ、てめえら。俺に一生自己嫌悪に陥ってろとでもいうのか。

 

「自分らしく」教は、自分がしたいように生きることを「自分らしく」と表現しているのだと反論するだろう。そういう自由を求めて生きる事が幸福な事である、なんて言い方をする筈だ。やりたいように生活が出来れば、それが一番いいじゃないかって。でもそんなの全く、自分らしくなんかないのだ。それは「自分らしく」教の教義に従って生きてるだけだ。そういう教義に従って生きていくことしかできない人という意味でその人は「自分らしい」のかもしれないが、そういう人達はその教義を絶対視するあまり、そこから抜け出る自由を失っていることに気付かない。つまり全然自由なんかではないのである。お釈迦様の掌から逃げられない孫悟空なのだ。

 

イケダ何某師はただそういう「自分らしくありたい」教の温泉に浸かって心地よくしているに過ぎない。ほんとの自由とは、温泉から上がって、冷え切った寒い空気の中で現実の厳しさにがたがた震えながらもしぶとく生き抜いていくことなのではないか…って、これ書いてるの酷暑の夏だったりするわけだがw