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南京事件否定論は腐っても使い回される法則

 

Twitter / hyakutanaoki: 意外に知られていないことだが、南京陥落当時の日本と中国は国際 ...

 

 

よく知らなかったが、この百田直樹という人は放送作家・小説家だそうだ。今は見ないが、かつては毎週欠かさず見ていた程好きだった「探偵ナイトスクープ」の構成も手掛けたとか。「たかじんのそこまで言って委員会」にも出演することがあるとか。まぁこの人がどんな人かは割とどうでもいいが、この人の上のようなツイートを見たとき、僕は時代が過去に戻ったのかと思った。

 

もう10年以上前になると思うが、一時期僕は南京事件議論にはまり、ネット上で否定派相手に相当議論をしたものである。図書館にまで出かけて古い資料を漁ってコピーして持ち帰ったり、自分でも分厚い資料本をネット古書店で買ったり、かなり熱中してたといってもいいだろう。その成果のほんのわずかな一部分がその筋では超有名なサイトである南京事件−日中戦争 小さな資料集の片隅に採用されたりしている。あまりに片隅過ぎてどこなのかは恥ずかしくて言わないが。

 

なので、記憶はぼやけてはいても南京事件議論の内容は色々と知っている。否定論を世に広めた功績として大きいのは小林よしのりの『戦争論』で、否定派大御所の故・田中正明東中野修道などの否定論を用いて世に喧伝した。こうした否定論はその度に大抵は肯定派人に論破されてきた。何せ内容が酷い。

 

例えば有名な否定論に「南京には当時20万人しかいなかったのに30万人殺せるわけがない」というものがある。ところがこの短い文章の中には多くの誤りが含まれている。詳しくは資料を細かく当たらないとなかなか分かりにくいが、概略、この20万人というのは南京攻略戦被害から逃れようと南京市内に設けられた安全区に避難した市民の人口である。ものすごく大雑把に言うが、この人たちは大虐殺の人数にはそもそも含まれないのである(※実際には含まれるのだが割合的にという意味で)。そしてこの人数には中国軍人の数は入っていない。30万人という虐殺数の中にはその中国軍人もかなりの割合で含まれるのである。さらに、日本の肯定派学者の間でも30万人という数は信じられていない。中国の学者だってどうやらまともに受け入れていないらしい。つまり、「南京には当時20万人しかいなかったのに30万人殺せるわけがない」→だから嘘である、というような単純な理屈は全く成り立たないのである。

 

とにかく否定論というものの多くはこのような感じで、短い否定論の中に多くのウソを含ませる。冒頭のリンクも例外ではない。

 

意外に知られていないことだが、南京陥落当時の日本と中国は国際的には戦争状態ではなかった。だから当時の南京は欧米のジャーナリストやカメラマンが多数いた。もし何千人という虐殺が起こったりしたら、その残虐行為は世界に発信されていたはずだ。しかし実際にはそんな記事はどこにもない。

 

前段は何が言いたいのかよくわからない文章になってる。日中双方ともに宣戦布告しなかった、そこには互いの利害があったからだが、実質的には戦争状態だったことは常識である。南京攻略戦は双方とも膨大な死傷者を出すほどの激戦で、取材は大変危険なものであり、実際のところ陥落後も南京市に残って取材を続けたのはニューヨークタイムズ紙のティルマン・ダーディン含め5名で、彼らも陥落から三日後には南京を離れている。これを「多数いた」と表現していいのかどうか僕にはよくわからない。

 

で、後段だけども、「実際にはそんな記事」があるのは有名な話。「南京事件 ダーディン」でググると出てくる。他にはシカゴデイリーニュースのA.T.スティールの記事もあるし、ロイターのスミスによる講演記事などもある。こんなのは今の時代、ggrksである。ていうかこいつ、何十年も前にとっくに論破済みの古いネタを恥ずかしげもなくよく使うよなぁ。このネタを最初に使ったのは否定派の祖先みたいな故・田中正明である。当時すでにあっという間に肯定派に論破されている。

 

ところで、関西には南京事件否定論に与する人が有名人に結構いるのではないかと思う。有名どころでは浜村淳がそうで、彼がパーソナリティを務める「ありがとう浜村淳」というラジオ番組で、「南京大虐殺は真っ赤な嘘っぱちなんです」みたいな話をしてるのを拝聴させてもらったことがある。

 

そういうなんか、繋がりみたいなので百田氏も毒されちゃったのかもしれないね。

 

※追記

またまたホッテントリに百田氏の別のツイートが上がってきたので暇つぶしにやっつけてみるとする。なおこのネタを使用する否定派はさすがにあまりいないと思う。

 

Twitter / hyakutanaoki: 私が十代の頃(今から40年前)、中国は南京大虐殺の被害者は1 ...

 

私が十代の頃(今から40年前)、中国は南京大虐殺の被害者は100万人と堂々と主張していた。しかしその後、心ある日本の知識人たちが、中国の主張の矛盾を指摘し、反論と 反証を試みると、中国は被害者数をどんどん減らしていき、今は30万人と言っている。バナナの叩き売りかよ。

 

このネタ元は確かにあった気がする。誰かが調べてたけど残念ながら記憶が出てこないのでだれが言い出したかもわからない。うっすらと何か百科事典ぽいものにそう書いてあった、というような話だった気がする。…違うかなぁ、知ってる人がいたら教えてほしい。

 

で、南京大虐殺の犠牲者数が30万人というのは、戦後に行われた軍事裁判の一つ、南京軍事法廷での判決文からである。公式数字はこれ以来変わらない。以下のゆう氏による資料ページに判決文がある。

 

南京軍事法廷判決

 

 調査によれば虐殺が最もひどかった時期はこの二十六年十二月十二日から同月の二十一日までであり、それはまた谷壽夫部隊の南京駐留の期間内である。中華門外の花神廟・宝塔橋・石観音・下関の草鮭峡などの箇所を合計すると、捕えられた中国の軍人・民間人で日本軍に機関銃で集団射殺され遺体を焼却、証拠を隠滅されたものは、単燿亭など一九万人余りに達する。このほか個別の虐殺で、遺体を慈善団体が埋葬したものが一五万体余りある。被害者総数は三〇万人以上に達する。死体が大地をおおいつくし、悲惨きわまりないものであった。

 

百田氏が40年前にいったい誰からそんな数字を聞いたのか…そんなことはどうでもいいけども、僕がうろ覚えのうら覚えでの記憶では、「最初30万だったのにそれが42万と増え、ついには100万と主張するようになった」というような説が原型だと記憶する。百田氏のバナナの叩き売り説とは真逆に大幅に水増ししていった、というわけだ。…でもこれソースが出てこなくて、不確かな話なので御注意を。

 

ついでに言うと、中国はこの判決に当たり、特に厳密な数量調査をしたってことはないように思います。いろんなところから出てきた埋葬数の記載事実やあるいは証言などの数字を足すとそういう数字になる、と言っただけのような気がします。被告に判決を下す為のものでしかないので、正確さは不要だったのでしょう。ではでは。

 

 

”化学物質過敏症"への正しい対応はどうあるべきかについての一考。

以前こういうエントリを書いた。

 

化学物質過敏症と南京事件と「悪魔の証明」について - 子持ち柳葉魚は好きですか?

 

NATROM氏の批判の矛先は、化学物質過敏症という現在の疾患概念が疑わしいものであり、そうした診断を行う臨床環境医に対してであって、化学物質過敏症と診断された様々な症状を訴える患者の存在に対してではない。ホメオパシーや誘発中和法といった怪しい治療法を行うに至っては有害ですらある、という主張の様だ。

 

しかし問題は、実際に化学物質過敏症という病名に対応するであろう患者が多く存在することである。

 

中日新聞:香り付き柔軟剤流行に悲鳴 「過敏症」の人たち:暮らし(CHUNICHI Web)

 

実は個人的に仕事の上でこうした苦情を受けている。ちなみに私は医者でも医療関係者でもない。マンションで隣の部屋から香り付き柔軟剤を使われて気分が悪くなり困っているので禁止してほしい、という訴えである。多分一年以上前に一回目の苦情があり、今度は同じマンションの別の住民から出た。

 

むろん、NATROM氏が標的とした臨床環境医の提唱している化学物質過敏症の概念による症状とは違って、別のなんらかの症例なのかもしれない。ただ、上記記事のとおり、かなり多くの同様の症状を訴える人がいるのは事実であり、個人的な意見としてはおそらく社会的な問題にまで発展しかねないと思われ、製造・売買・使用の禁止、あるいは制限といった行政上の処分を下さざるを得なくなるのではないかと思う。なおアメリカではすでに訴訟になっているという情報もある*1

 

現在の”化学物質過敏症”を取り巻く状況については、NATROM氏の議論は正論であるように思う。その仕組みなどよくわかっていないのに、ホメオパシーなどの怪しい代替療法を施したり、あるいは実は違う病気の可能性があるのにそうした診断をしないで、化学物質過敏症と診断したりしてしまうのは確かによろしくない*2。そして真に必要なのはそうした患者への可能な限りの正しい治療であるべきだし、あるいは行政的対応であろう。

 

香り付き柔軟剤の件はまさにそうだと思う。この場合原因商品ははっきりしているし、いたずらに一括して現在のような状況の”化学物質過敏症”と診断するのはよくないと思う。

 

 

 

エスカレータでは歩いてはいけない

大阪が左側通行なのは有名な話。

京阪電車で調べた人曰く樟葉から先、京都方面に行くと右側通行になるそうな。

しかし、エスカレータはそもそも歩くのは禁止らしい。

よく見ると、エスカレータのとこに注意書きが貼ってあるのもある。

理由はもちろん危ないから。

 

確かになぁ、なんでそんなに急ぐの?とか、自分でもエスカレータ歩きながらそう思わなくもない。

酷い時は駆け上がったりもする。

自分では危ない目にあったことはないけど、階段とはまた違う危なさがあるのは分かる。幅が狭いので、他の人も巻き込む可能性が高い、とか。

 

歩いた方がそりゃ速いに決まってる。

特に朝の一刻一秒を争うが如き通勤時間帯は、俺は絶対歩く。

そんなに急ぐ必要もない時でも歩く側になるかな。

 

だけど、最近ちょっと歩かない方を選ぶようにしてみた。

何の事はない、たったそれだけの事なんだが、ほんの僅かに心に余裕みたいなものを感じる気がする。

よくよく考えたら、たかがエスカレータ如き、急ぐ必要はないのだ。

通勤時間帯でも一つ電車を早くすればいい。

たったそれくらいの事で出来る少しの余裕。

 

意外とそんな単純なことが大切なのかもしれないと、エスカレータに乗りながら考えてたのであった。

 

でも、どことは言わんが、エスカレーターベルトをきっちり掃除してほしい。

手垢で真っ黒なの多過ぎてとても持つ気になれないから。

気付いてない人かなり多いけど、あれは潔癖症でない俺でも不衛生極まりないと思うな。

 

 

化学物質過敏症と南京事件と「悪魔の証明」について

化学物質過敏症に関するに喧しい論争について知ったのはかなり最近だ。興味を持ち出してまだ2週間程だろうか。

 

[化学物質過敏症] 医原病とする医師と過敏症患者らが意見の違いで炎上?! - NAVER まとめ

 

たったの二週間かそこらで問題の詳細についてそれほどわかるわけはないのではあるが、議論の中心人物になってるNATROM氏については、かなり前からはてなのホットエントリーによく上がってくるし、氏がブログテーマとすることの多い疑似科学やトンデモといったところには結構興味がある方なので*1、氏の論述も興味深く読んでいた。氏の論述は常に的確で、冷静であり、論理的であって非常に為になると思っているのが僕の立ち位置ってことになる。

 

さて、化学物質過敏症という症例があるのを知ったのは多分、何年か前に見たNHKのクローズアップ現代って番組からだったように思う。へぇ、世の中にはそんな病気もあるのだなぁ、という程度にしか思ってなかった。最近興味を持つようになるまでは、まさかその存在を疑われているとは考えもしなかった。だが、NATROM氏は公式にはそんなことは一言も述べていないが、極論すれば「化学物質過敏症は存在しない」、と言いたいらしい。ていうかはっきりNATROM氏はそう言っていいのではないかと僕個人は思っている*2

 

これに、ネット上で化学物質過敏症患者の人たちを中心にして論争が巻き起こったという状態だ。そりゃ、当のその病気で苦しんでいる人たちからすれば、そういう気持ちになるのも分からなくもない。ただNATROM氏の批判の矛先は化学物質過敏症を取り扱う臨床環境医に対するもので患者に対してではないらしいが、ともあれ、患者たちの逆鱗に触れたわけだ。

 

例えば僕が咳と高熱でしんどくなったので病院に行って、「あなたはだたの風邪です」と診断されたとしよう。そして風邪薬なんかを処方されたりする。ところがなかなか治らないし、変だなぁと思って別の病院に行くと「風邪じゃなくてインフルエンザですね」ってことになったとしよう。僕は多分そこで「やっぱりインフルエンザだったんだ!」って納得する。多分そんな感じで、化学物質過敏症患者の人たちは、鬱病やら何やら診断されても一向に良くならず場合によっては余計に苦しんだ末に、化学物質過敏症と診断してくれるところに行きついて、似たような感じで納得したのであろう。ああ、なるほど、そういう病気だったのか、だから他の病気と診断されてもその治療の効果もなかったんだ、みたいな。

 

インフルエンザの場合は、もちろん診断方法が確立してるからまず間違いはあるまい。僕は以前は化学物質過敏症もそうだと思っていた。ところが、化学物質過敏症はそうではないらしい。詳しい診断内容等についての知見は現時点では僕にはないけど、乱暴に言えば「何らかの微量の化学物質がそうした症状を引き起こしている可能性がある」と言っているに過ぎないらしい。ただの推測なのだ。症状を引き起こす仕組みもさっぱりわからず、調べてもいったいどんな化学物質が反応を引き起こしてるのかも見当もつかない。いっちばん妥当と思われるホルムアルデヒドって物質で化学物質過敏症と診断されている人を対象に試験しても症状の出る人と出ない人がいる。その他にも色々、どうにも納得しづらい調査結果しか得られていないらしい。

 

化学物質過敏症患者に言わせれば、「さっぱりわからないなんてことはない。農薬が使用された野菜や果物がそばにあるだけで確かに気分が悪くなるのだ!」らしい(※例えばそういう人がいるという話)。でもそばにあるって言うけど、ほんとに匂うほど顔のそばにあるならともかく、計測不能なほどの超極微量の農薬成分が影響しているという程度しか考えられない状態で身体に異常をもたらすってのもなかなか常識では考えづらいものがある。理解に苦しむってのが正直なところだろう。それで、NATROM氏のような懐疑論者はその原因を「心因性」、つまりそういうものがそばにあると心に思うことで症状が引き起こされているのではないか?というわけだ。ただ、農薬使用の野菜や果物がそばにあるとは知らなかったのに気分が悪くなったので、周囲を見渡したらそういう野菜や果物があった、なんてこともあるそうな。

 

閑話休題。

 

解説めいた話はそれくらいとして、議論をネットで追っていたら、以下の様なブログ記事を見つけた。

 

患者の自己決定権と化学物質過敏症 | こりゃ、ほたえな

 

引用してみよう。

たとえば、1937年末から翌年にかけて日本軍が中国軍民を虐殺するなどした歴史的事件「南京事件」について、その事件の存在をしめす史料は膨大にあり、事件の実在を疑うことは不可能であるところ、「南京事件は存在しない」と考えたい論者がしばしばこの言葉を口にする。かれが一体、どういう理路をもってその言葉を持ちだしたのか、まったくわけが分からないだろう?普通の人間ならば、みんな理解できなくて当たり前だ。

かれは実のところ、こう考えている。「南京事件は存在しない」→「不在を証明することはできない(悪魔の証明)」→「だから不在を証明する責任はない」「証明を抜きにして不在を主張できる」、と。

言うまでもないが(しかしあえて繰りかえすが)、南京事件の存在をしめす史料は膨大にあり、事件の実在を疑うことはもはや不可能である。もし、南京事件が存在しないのだとすれば、これらの史料が存在し、これらの史料が示唆する事実はなんだというのか?

かれは、南京事件の不在を主張するならば、まずこれらの史料群から導きだされる事件実在の証明を崩さなければならない。

よく誤解されているのだが、「悪魔の証明」という言葉が伝える教訓は、「不在を証明することはできない(あるいは困難である)」ということではない。ましてや「挙証責任を果たすことなく不在を主張できる」という言い訳でもない

科学は、実在の証明を崩すこと(反証)しかできない

悪魔の証明」という言葉が伝える真の教訓は、反証を抜きにして「不在を主張してはならない」である。 

 

僕が南京事件について数年前に2chなどでいわゆるネトウヨさん的な人たちとさんざん議論してきたことは過去に書いた。僕はいわゆる肯定派である。だからこのyunishioさんとは派閥は一緒なのだが、確かに僕の論争相手も当時散々この「悪魔の証明」を持ち出した。南京事件がないというのは否定派なのだから、ないことを証明するのは否定派の方である、というと彼らは決まって「ないことの証明はできない、それは悪魔の証明である」とほざくのだ。

 

ところが彼ら否定派は大抵自らこれを犯す。例えば、南京事件に関する具体的な証拠となる資料を上げると、それが正しいことを証明しろ、という具合である。それこそ悪魔の証明で、そんなもんどこまでも突き詰めて出来るわけない。100個資料があっても全部真実でないこともあり得る、とすら言われたことがある。もはや南京事件否定論は信仰の世界と言っていい程だ。

 

実のところ南京事件派がよく使うロジックとしての「悪魔の証明」は、あくまでもある種のレトリックなのであり、「悪魔の証明」自身の正しさを突き崩せない事にのみ依拠したものであるに過ぎない。要するに、「悪魔の証明だ」と言えばそれは絶対であり、崩せない論拠となる(かのように思われる)だけの事なのである。なるほど「悪魔の証明」それ自身は正しい、しかし。

 

さて、なるほどyunishioさん仰るように、反証の必要はある。疑わしいとほざくだけでなくきっちし反証しろ、と。化学物質過敏症を訴える個々の患者は確実に存在するのだから、その存在を説明付けてくれと。南京事件否定論が如く、化学物質過敏症は完全に証明されてないというだけで否定するな、と。だが事態はそう簡単に対応付けられないものであることをyunishioさんは理解してないところが少々痛い。NATROMさんも、個々の患者を否定しているわけではない。そういう症状を訴える人たちの事は認めている。嘘だなんて言ってない。ここが南京事件論争と真逆なところである。南京事件否定論は、化学物質過敏症で言う患者さんに対応付けられる南京事件資料そのものに疑念を持つのである。これは決定的に違う。

 

否定の矛先は診断にある。そうした症状を訴える人たちの存在は疑ってない。そうではなくて、そういう診断を下す臨床環境医に対してなのであり、化学物質過敏症という確定的診断名に対してなのだ。実際に、臨床環境医たちの言う化学物質過敏症という病気仮説自体が科学的に見て不完全であり、まったくその存在が証明出来ていないところへと批判が向いているのである。南京事件は全く異なって、膨大な資料群があり、あんなもん否定する方が頭おかしいし、いかれてる。

 

僕個人も、患者さんの訴える症状や苦しみなどは疑わない。数は知らないが相当数の患者がいる事実がある。それが化学物質過敏症と呼ばれる病気仮説が正しいのかどうかまでは、僕個人は医者でも学者でもないし、ここ二週間ほどしかまだ知見のない人間だからわからないし、大した意見も言えない。

 

ただ、どうもその…、ネットでNATROMさんに喧嘩を売ってる連中というか、そういう人達を観察していると、その行状とか、なんだかしらないが疑似科学やトンデモに近い感じがする*3ところというか………信用できなくなりつつあるのは確かである。

 

電車内でイヤフォンからシャカシャカ言わしてるやつがムカつく

これホントにイライラする。

 

iPhoneで音楽聞きながら通勤とかは僕もたまにするけど、一応気にしてて、多分この程度なら大丈夫だろうって音量にしてるし、周りの視線をわりと気にしてる。たまに音鳴らしながら外して、周りにはほとんど聞こえない音量かどうか確かめたりもしてる。

 

で、今日、仕事でちょっと遠くに出掛けてて、そこから帰るときはいつも楽しみにしてる電車のボックス席に座った。一時間弱。まぁまぁ座り心地の良いその席でiPhone弄ったり、読書したり、あるいはもうぐっすり寝たりするのが小さな幸せだったりする。座れないと悲しくなるので、わざわざ普通に乗る駅から3分ほど先の終点までわざわざ行ってから乗ったりするほどである。ところが。

 

その普通に乗る駅に止まった時に、隣に大学生くらいの男が座ってきた。そいつが、そんなに馬鹿でかい漏れではないものの、イヤフォンから微妙に音漏れさせていたのだ。今日はちょっと疲れててずっと転寝してたかったのに気になって眠れない。途中何駅か停車駅が来るたびにそいつが下りてくれないかと願ったが、結局、同じ駅まで付き合うことになってしまった。

 

実はわりと近くで延々ぐずって泣いている1歳くらいの子供がいたのだけども、そっちの方が遥かに五月蠅いのにまるで気にならなかった。状況にもよるけども、僕は子供の泣き声にはわりと寛容な方からかもしれないが、とにかくシャカシャカの方が断然気になって仕方がなかった。

 

でも、これ、なかなか相手に言うに言えない。「すみません、もう少し音量小さく出来ませんか?」って言えば済む、とは思うものの、その勇気が出ない。もし逆切れっぽくなって面倒なことになったら?とかどうしても考えてしまう。実はかなり前だけど、その時は知人と一緒にいて、その知人も迷惑そうだったので思い切ってそう行ってみたら「はぁ?」って顔されて無視された経験があるのだ。思わずこっちが切れて喧嘩にでもなりそうだったけど我慢した。嫌な思い出だ。

 

だから結局、こっちが我慢させられる羽目になる。電車内などで音漏れをさせる人はそういうマナーの周知の効果もあって十年かそこら前よりはかなり減ったとは思うけど、それでもまだたまにいる。でも、他の人だって気になる筈なのに注意してるところなど見たこともない。せいぜい迷惑そうな視線を投げかける程度だ。

 

なんかいい方法ないのだろうか。電車内では音漏れの少ないカナル型や密閉型ヘッドフォン以外は禁止とか。とにかく、シャカシャカはむかつく。

 

冷蔵庫に入ったりするのは暑いからだろ

とすると、誤発注廃棄処分の大量のバーガーをベッドにしたり、食材咥えたりするのは説明が付かないけど、寒かったら冷蔵庫には入らないと思うから…。

 

単なる現場からのレポートとして - 24時間残念営業

 

そういうわけで、ネットの拡散力は、それをただ眺めるだけのおいら達のような一般人やら、あるいは急いで詫びてとにかく営業に不利益にならないようにしないといけない企業さんを賑やかにさせた。それに乗じたかどうか、ブログに書くネタとしての旬の、その生きの良さというか、寿司職人ならぬブログ職人たちは競い合うようにしてその論述をネットに提示した。

 

そのなかで上にあるコンビニ店長の論述は他の論述から頭一つ二つ抜け出て、「うちら」という言葉で見事にその構造を暴き出したかに見える。

 

「うちら」の世界 - 24時間残念営業

 

あちこち読んだ限り分析としてこれ以上優れた内容のものはなかった。実はこのネタで久々にブログを更新しようとしてたら、ヤラレターと思って何も書けなくなったくらいインパクトあった。僕にはこれ以上の物は絶対に書けない。以上どころか及びもしない。あーむかつく。

 

つい最近の話だけども、息子と二人で某有名イタリアンファミリーレストランに少し遅めのランチを食いに行った時の事。まだ小学生低学年の息子がカルボナーラをがつがつ食ってる後ろがちょうど店の出入り口付近だった。そこを、おそらく中学生だろうと思う5~6人の集団が店を出ようとしていた。出入口直ぐの所に設置されたドリンクバーカウンタに置かれたグラスを勝手に取って、無料とは言え水を飲んだりして随分と行儀悪い奴らだなぁと思っていたら、そこに店長らしき人がやってきて何やら彼らを注意し始めた。

 

店長の右手には粉チーズの入れ物。どうやら、内容はわからないが粉チーズの入れ物に何かしただろ?って苦情らしい。「この様な事をされては困ります、今後見つけたら弁償して頂きます」程度の注意だったと思う、彼らがちゃんと謝ったかどうかまでは見てなかったけど、特に逆切れする事もなく退店していった。

 

普通はそんなことはしない。してはならないし、すべきでもない。もしそんなことをこの目の前で美味そうにカルボナーラを平らげようとしている息子がやったら、そんなことをしたらどんな迷惑になるかくどくど丁寧に説教してたところだろう。でも、自分がまさにあれくらいの年頃だったころ、「ああ俺らもなんか色々したようなぁ」って。誰もが通る道とは言わないけども、犯罪ではないが迷惑にはなるような行為は若い人なら大抵経験してるように思う。いや、犯罪になりかねないようなこともしてたし、、、、。

 

で、そういうことがネットで情報として拡散され、可視化されるために企業が慌てふためく時代になったというのが概ねの総括なんだろう。俺もそんなことを誰かのブログ記事のブコメとして書いた。そこへ店長の分析として「うちら」であり「低学歴」というキーワードに代表されるより社会論的な論述が出てきたという流れである。店長がわざわざ低学歴と分断したのは、この記事の冒頭で上げたリンクの記事で述べられているようなことであろうけど、要は切り取られて外部を持たない「うちら」だけのノリで完了する「低学歴」の社会分化みたいなものがこの世に生成していて、それがネットという「うちら」だけでは完結しない実態と混ざってしまう時に起こったのが今回の炎上事件の連鎖である、みたいな。

 

たとえがあまり良くないかもしれないが、花火付けて自分たちだけで楽しんでると思ってたらすぐ傍に花火工場があって引火して爆発しちゃった、みたいな。んで、花火工場なんかそんなん知らん、花火遊びできる場で遊んでただけじゃないかっ!、てのと、そこに花火工場があるということは認識しておくべきだっ!、ていうのと、花火そのものを禁止しようとする企業人と、って構図。しかし「高学歴」社会はそもそも花火なんかしない。

 

まぁ、TwitterFacebookとかを花火工場に例えるのも無理はあるけども、こないだ見に行った花火大会なんかを思い出すと、それでも人は花火を見るのが好きなんだなぁと漠然と思ったりする。会場から脱出するのに1時間も2時間もかかるとか、すごい人出だったなぁ。俺は大会やってる近所にある上司の家で酒かっくらいながらのんきにベランダから見物してたけどね。

 

高みの見物が一番楽だよな。

 

「自分らしくありたい」教という自己矛盾

 

「自分らしい」ということ - 24時間残念営業

 

24時間営業の人は割と好きで、この人ほんとよく考えてるなぁと常々感心してたりする。ずっと以前に、この店長が店員を教育すべく、色々と語っていたことの中にアリストテレスが「形而上学」の中で書いていたこととそっくりな内容があったのにはいたく感心してしまった。ほんとにしっかりとよく考えてるんだよなぁ、俺には足元にも及ばない。コンビニの店長という職業にこんなに深い洞察が必要なら、多分僕には無理だ。…いやあるいはコンビニの店長という鍛錬がそうさせるのか。

 

自分らしく、という表現は自己矛盾である。自分でない人は論理的に存在しない。我思う故に我有り、である。他人の考えに従って生きようと、自分の考えを殺して生きようと、どう足掻いてもそれは自己の意思によるものであり、たとえそれが強制的に行動させられてたとしてさえも、その強制に従うのは自己であり、人は自分らしく生きること以外あり得ない。屁理屈だが、しかし、現にそうなのだから仕方ない。我々は自分という殻からは死ぬまで出ることは出来ない中の人なのだ。中の人の中の人がどうなっているのかはともかく。

 

いや、しかし屁理屈でもないと思う。例えば店長は上の文章を最低でも1時間以内に仕上げているに違いないだろうが、僕にはそれが出来ない。たいていほとんどの場合書いては消し書いては消しの繰り返しで、下書きのまま放ってしまって、結局、アップしないものも多くある。下書きで残っているならまだいい方で、脱線し過ぎてグダグダになって何を書いているのか趣旨すらわからなくなり、下書き保存せずブラウザタブを閉じてしまうことも頻繁にある。これだって既にもうグダグダで、まとめきれるのか不安だ。実はもう、物書きしだした小学生のころからそうで、書くこと自体は好きだったが、いっつも中途半端、物書きとは違うが初めて作ったフルスクラッチプラモデルも、ものすごくいい出来だったのに途中でやめてしまったほどだ。

 

結局そういう中途半端さは僕の人生延々に続いており、これが遺伝的に備わっている性質であり、どうにもならないと自覚せざるを得ない。多分脳の神経構造がそうなっているのだろう。開き直って、これが自分らしさなのだと思うことはほんとによくあることで、自分らしく生きるというのは僕にとって成長するのは諦めろというに等しかったりする。ていうか何が「自分らしく生きる」だよ、てめえら。俺に一生自己嫌悪に陥ってろとでもいうのか。

 

「自分らしく」教は、自分がしたいように生きることを「自分らしく」と表現しているのだと反論するだろう。そういう自由を求めて生きる事が幸福な事である、なんて言い方をする筈だ。やりたいように生活が出来れば、それが一番いいじゃないかって。でもそんなの全く、自分らしくなんかないのだ。それは「自分らしく」教の教義に従って生きてるだけだ。そういう教義に従って生きていくことしかできない人という意味でその人は「自分らしい」のかもしれないが、そういう人達はその教義を絶対視するあまり、そこから抜け出る自由を失っていることに気付かない。つまり全然自由なんかではないのである。お釈迦様の掌から逃げられない孫悟空なのだ。

 

イケダ何某師はただそういう「自分らしくありたい」教の温泉に浸かって心地よくしているに過ぎない。ほんとの自由とは、温泉から上がって、冷え切った寒い空気の中で現実の厳しさにがたがた震えながらもしぶとく生き抜いていくことなのではないか…って、これ書いてるの酷暑の夏だったりするわけだがw